<私>
<私>
すべて言葉は過去のもの
あのときの感受はもうここにない
あるのはただの記憶と記録
なんと頼りのない幽かなものだけ
あれは幻だったのか
昨日と今日の連続でさえ朧ろに
私は夜ごと死に生まれ
私は無
私はいつも零からの始まり
よく見よ
決して<私>を求めてはならぬ
依るべき一つの方法もなく
言葉より前
ただ、この心と身体のまにまに

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<私>
すべて言葉は過去のもの
あのときの感受はもうここにない
あるのはただの記憶と記録
なんと頼りのない幽かなものだけ
あれは幻だったのか
昨日と今日の連続でさえ朧ろに
私は夜ごと死に生まれ
私は無
私はいつも零からの始まり
よく見よ
決して<私>を求めてはならぬ
依るべき一つの方法もなく
言葉より前
ただ、この心と身体のまにまに
秋。今年も大好きな季節がやってきました。
昼間はまだ少し暑さも残っているようですが、それでも風はいよいよ涼しくて。
燃え上がる季節を過ぎて、空気も少しづつ落ち着き、透明度を増しているような気がします。
秋はどうしてこんなにも感傷を誘うのでしょう。
この連休はたまたま一人家にいることになって、読書や仕事をしていると、ふいに窓から吹き込む風が淋しくて、記憶を呼び起こされるような感じがします。
秋はこれまでぼくにとって変化をもたらすことの多い季節でした。
出会いや別れ、人生の新しいステージは、いつも決まって夏を過ぎて訪れたような気がします。
思えばこのblogを始めたのも秋でした。
それはちょうど7年前。
誰に向ける訳でもないけれど、でも多分、なんとなく誰かに自分の言葉をきいて欲しくて、ぽつぽつと始めたのがこのblogでした。
秋の淋しい、人恋しい風に吹かれて、blogに向かったは自然のことだったのかもしれません。
当時はまだ学生でした。
ここでは本当にたくさんの方と交流させていただきました。
嬉しかったり、悲しかったり、落ち込んだりしたことをここに書けば、それにたくさんの方が一緒に喜んだり、悲しんだり、励ましてくれる。
そのことにどれだけ当時のぼくが支えられていたことか、今、あらためて思います。
bloggerさんのなかには、実際、お会いさせていただいた方もいます。
食事とお酒を囲んで、楽しくお話をさせていただいたり。
あるいは直接ご自宅にお邪魔させていただいて、楽しい時間を過ごさせていただいた方も。
今の奥さんとも、ここを通じて知り合うことができました。
あれから7年。ここを更新することもめっきり少なくなりました。
当然、ここを通じて言葉を交わしていたたくさんの方との交流も、今はほとんど失われてしまいました。
1番の直接的な原因は時間がなくなったことですが、でもそれはもっと大きななにかに定められているような気もします。
学生の頃は、すべての出会い、すべての思い出を、そのままの状態で、ずっとずっととっておきたいと思っていました。
それは大袈裟ではなくて、本気でそう思っていたような気がします。
でも、人は、変わらないけれど、またある部分では、変わらないではいられない、ということなのでしょうか。
今はきっと、皆それぞれに、それぞれ異なるステージで生きていて。
それは再び交わるかもしれないし、もう永遠に交わらないのかもしれません。
今日、ふいにここの昔のコメント欄をながめていました。
あんな話をしたなあ、こんな話をしてたんだなあ。
覚えていることも、忘れていることもあります。
ぼくのこのちいさなblogに、本当にたくさんの言葉が残されていて。
皆さん、お元気でしょうか。
どこで、どうしておられるんでしょうか。
願わくば、どうぞ、皆さんがお元気でいらっしゃいますように。
健康で、楽しく、悪いなにかに囚われることなく、良い毎日を暮らしてらっしゃいますように。
ここで出会った皆さんが、1人残らず、みんな。
みんな、みんな、おげんきでいらっしゃいますように。
今、ただ、そう願っています。
今日は薄曇り。うちの窓からは琵琶湖がよく見えます。
ヨットが出ています。
木々がそよいでいます。
黄金の田んぼが揺れました。
秋。大好きな季節。
今また、カーテンが少しふくらんで、涼しい風がやってきます。
繁忙期を越えて落ち着きを取り戻すと、ふいにものさびしい思いに襲われることがあります。
忙しさのただ中にいると目の前のことに一生懸命で、一つ一つの仕事を終える毎に何らかの達成感を感じていたりするのですが、振り返ってみるとなんてことはない。
自分のやった仕事は、世の中に数多とある組織のうちのたった一つ、その中でもたった一つの小さな単位で、ほんのいくつかの仕事をこなしただけじゃないか。
それはもちろん必要なことだし、無意味なことなんて当然ないとは思うけれど、でも、それがどれだけ何かを変えただろう。
まして、それは何ら人の心を動かすような仕事ではなかった…。
時にそんなナイーブに過ぎるような感覚にまでとらわれてしまいます。
社会人となって早や5年。
学生時代とのいちばんの違いは、日々の生活の中で、人の心と心とが交感するような経験をもつことが、圧倒的に少なくなったのではないかということです。
学生の頃は、学生の頃だからこそ、もっと無謀に、自分なりの正義や主義主張をもって、社会と対峙していたように思います。
それが現実にどれほどの意味をもっていたかは甚だ疑問ですが。
それでも日々、自分の人間性や魂のようなものが試されているような感覚があって、少なくとも自分がどのように成長していくべきかという問題については、もっと真剣に向き合っていたような気がします。
社会で求められる妥協。
社会生活を営むうえでそれは必要なもので、何ら悪い意味をもつものではないのですが、妥協が必要だといってそれに甘えて、自分の人間性や正しさ、きもちまで曲げてしまってはないか。
いつか見るであろう自分の子どもや孫たちに恥ずかしくない人となるために、この自問は忘れてはならぬと、改めて肝に銘じたいと思います。
今年でぼくも29歳をむかえます。およそ人生の3分の1は過ぎてしまいました。
良い縁に恵まれて家族を得、個人としての幸せは手に入れることができました。
でも果たしてそれで満足していいのだろうかという疑問が、最近になって特に強く、胸を衝いてくるのを感じます。
一生のうちで、自分より後の世代のひとたちのために何かを残すことができたなら、それは人生における大きな仕事を一つ成し遂げたといえるでしょう。
そしてその何かには、自分の生きた時間と知恵、思いを託していたい。
残りの限られた時間の中で、後代のために、果たしてぼくが練りあげられるものとは、一体、何なのでしょうか。
ぼくはいったいどんなひとになっていくべきなんだろう。
学生の頃はよくそんな自問をしていたように思います。
けれど社会に出てからは少しづつその問からも遠のいて、しかしそれは決してこたえがみつかったからではなく、日々、他にもっと考えないといけないことがふえたから。仕事やお金、生活のこと、それらを考えるだけで、一日は足りないとさえ感じるほどです。
それでも、ふとした時間にあの問は甦ってきます。
静かな雨の日、通勤途中の朝やけの中、あるいは穏やかな湖を目の前にして、ぼんやりと遠くをみつめて考えてみるけれど、そのこたえはやはり変わらずみつからないようです。
しかし同時に、きっとそういうものなんだろうなという不思議な納得が、どこからか沸いてくるのも感じます。
ひとに完全はなく、たぶん、迷い迷って迷いつづけるうちに、ひとは人生を終えていく。
でも迷うことをやめてしまったらそこで終わりです。
たとえこたえではないとしても、迷いつづけてさえいれば、何か少しでも良い方に近付くことができるかもしれない。
はやくておおい現代において、つい目の前のことにとらわれてしまうけれど。
「迷うことがひとを耕す。」
ひととしてどうふるまうべきかふりかえり迷い、そして他のどのひとも等しく迷っているかもしれないことを、きっと忘れないひとでありたい、そう思います。
気がつくとこの前blogを書いたのが2月の1日…。
時間が経つのは早いもので。
***
4月。仕事で異動がありました。
今までとは全くちがう業務内容。
そして業務量、業務ペース…。
昨年1年は本当に忙しい毎日でした。
昨年の4月にも異動があって、
このときもそれまでとは全くちがう業務を担うことになったのですが、
担当はぼく1人で、体制をほぼ0から作り上げなくてはいけないような状態で。
上司は鬼のように仕事を次から次にもってくるし、
トラブルは続くわ、その上更に仕事は増えるわで、
決算期は寝る間を惜しみ、その後も休日返上で仕事をして。
いやあ、それでも勉強になったなあと思います。
右も左もわからないまま、取り敢えず目の前にある仕事を次から次へとさばいていくうちに、
徐々に自分のペースをつかんできて、次第に段々面白く、
「よしよし、しめしめ」と静かに充実感を噛み締めていたところでした。
ようし、新年度はこれをこうして、あれをああしてと考えていたところに、この4月。
ぽーんとまた異動になって、仕事が一気に落ち着いてしまいました。
仕事は決して多くない、難しくない、そしてトラブルも特にない。
メンバーもこれまでの孤軍奮闘状態から、同僚、先輩まで数名与えられて。
職場環境としてはこれでごく普通のハズなのですが、
昨年の喧噪がウソのようで、何だか拍子抜けしてしまって…。
何か事件やトラブルでも起きないかなあなんて青島刑事のようなことをぽやんと考えながら、
燃え尽き症候群というのでしょうか、毎日をなんとなく過ごしてしまっていました。
まさかのんびりが得意なハズのぼくがこんなことになるなんて。
仕事が忙しい時期、まさに字の如く心を亡くしていたのだと思います。
ついつい忙しさにかまけてしまうけれど、
仕事がどんなに忙しくとも感受性を豊かに保っていたいものだなあと改めて。
のんびりプロへの道は遠く—。
***
昨日は祖父の7回忌の法要がありました。
いとこの子ども(8歳)が来ていたのですが、
やんちゃざかりで、気にとめたものすべてにケンカを売っていました。
ミニカーとか、天ぷらとか、お父さんとか、牛の像とか…。
最後、道路をふあふあ転がっていくティッシュペーパーを追いかけながら、
「オルルルルラァ!」ってケンカ売ってたのは面白かったなあ。
最後はあんまりにもぼくらが面白がるからサービスでやってくれてたような気もするけれど。
ありがとね。
子どもっておもしろい!
年度末に向けて仕事の忙しさもピークヘ上昇し始める頃。
毎日の忙しさにかまけているとつい視界が狭くなりがち。
体の中にもやもやがたまって人間まで狭くなってしまいます。
夕暮れ。ふと顔をあげると豊かな景色が広がっていました。
一日の最期の光をもやす夕陽のオレンジと、
やがて訪れようとする夜の青。
辺りはしだいに闇に包まれていって、
影となった木々の稜線はむしろいっそう鮮やかです。
冷たい風がふっと体の中に入ってきて、
たまったもやもやの間を縫い、混ざり、
そのまま向こうへ吹き飛ばしていく。
ふいに背筋がのびるような、
温もり、生気が宿って、
目に色が戻ってくるような。
気がつくと、
体がほんのついさっきより大きく動くような気がするのです。
現代のスピードに流されて、
なんとなく生きてしまわないように。
体の芯から先の先まで、じっとみつめ澄ますこと。
自分自身への教訓です。
朝起きて、布団をあげて。
奥さんが朝食の支度を始めて。
ぼくは洗濯物を始めて。
二人で朝ご飯を食べて。
奥さんが仕事に出かけるのを見送って。
ぼくは仕事を始めて。
おやつを食べたり。
お昼ご飯を食べて。
それからまた少し仕事をして。
夕方、奥さんが帰ってきて。
二人でお茶の時間にして。
少し寝転がって。
奥さんが夕食の支度を始めて。
ぼくは風呂掃除を始めて。
二人で晩ご飯を食べて。
テレビを見て。
お風呂に入って。
明日の準備をして。
今日のお話をして。
二人で布団に入って。
また新しい朝をむかえて。
多分なんでもない毎日。
多分どこにでもある毎日。
それをこれから何年、何十年。
子どもができたり、
生活はその時々で変化して。
それでもきっと変わらない毎日を。
何年、何十年。
いい、人生。
これまでも、これからも。
ずっとくりかえしくりかえしていくこの日々を。
あけましておめでとうございます。
2009、新年。
そのはじまりは、今年も家族とともに過ごすことができました。
年末は妻の実家で。年始はぼくの実家で。
決して豪華とはいえないけれど、
それでもきちんとおせち料理を用意して、
皆で食卓を囲って「おめでとうございます」と、そう言える時間。
とっておきの贅沢な時間です。
なんだか大変な時代になってきてしまって、
色んな価値、色んな主張が複雑に絡み合って、生まれ、消え、
非常に迷うに易しい状況にあって、
けれど、家族ということだけは揺るぎなく、
信じ、守るべきものとして、確かにここにあるように感じます。
ますます速度を増して過ぎ去っていくかのように感じられる現代の日常にあって、
年末年始、家族とゆっくりと時間を過ごすことができて、
その大切さを改めて感じられたように思います。
「皆が健康でありますように。」
初詣のお祈り事はとってもシンプル。
新年の抱負は時間を大切に。
日常に忙殺されないように、
本当に大切なものをしっかりと感じていたいなあ。
本年も何卒よろしくお願い申し上げます。
新年が皆さんにとってどうか良きものとなりますよう。
(写真は新年に家族で登った実家の裏山から望む神戸の町並み)
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