錬成
繁忙期を越えて落ち着きを取り戻すと、ふいにものさびしい思いに襲われることがあります。
忙しさのただ中にいると目の前のことに一生懸命で、一つ一つの仕事を終える毎に何らかの達成感を感じていたりするのですが、振り返ってみるとなんてことはない。
自分のやった仕事は、世の中に数多とある組織のうちのたった一つ、その中でもたった一つの小さな単位で、ほんのいくつかの仕事をこなしただけじゃないか。
それはもちろん必要なことだし、無意味なことなんて当然ないとは思うけれど、でも、それがどれだけ何かを変えただろう。
まして、それは何ら人の心を動かすような仕事ではなかった…。
時にそんなナイーブに過ぎるような感覚にまでとらわれてしまいます。
社会人となって早や5年。
学生時代とのいちばんの違いは、日々の生活の中で、人の心と心とが交感するような経験をもつことが、圧倒的に少なくなったのではないかということです。
学生の頃は、学生の頃だからこそ、もっと無謀に、自分なりの正義や主義主張をもって、社会と対峙していたように思います。
それが現実にどれほどの意味をもっていたかは甚だ疑問ですが。
それでも日々、自分の人間性や魂のようなものが試されているような感覚があって、少なくとも自分がどのように成長していくべきかという問題については、もっと真剣に向き合っていたような気がします。
社会で求められる妥協。
社会生活を営むうえでそれは必要なもので、何ら悪い意味をもつものではないのですが、妥協が必要だといってそれに甘えて、自分の人間性や正しさ、きもちまで曲げてしまってはないか。
いつか見るであろう自分の子どもや孫たちに恥ずかしくない人となるために、この自問は忘れてはならぬと、改めて肝に銘じたいと思います。
今年でぼくも29歳をむかえます。およそ人生の3分の1は過ぎてしまいました。
良い縁に恵まれて家族を得、個人としての幸せは手に入れることができました。
でも果たしてそれで満足していいのだろうかという疑問が、最近になって特に強く、胸を衝いてくるのを感じます。
一生のうちで、自分より後の世代のひとたちのために何かを残すことができたなら、それは人生における大きな仕事を一つ成し遂げたといえるでしょう。
そしてその何かには、自分の生きた時間と知恵、思いを託していたい。
残りの限られた時間の中で、後代のために、果たしてぼくが練りあげられるものとは、一体、何なのでしょうか。














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